手首の傷

 最近問題になっていることに、リストカット症候群というのがある、何かに付けショックなことがあると、手首を切ってしまうのである。一般的には小刀系の物できるから、きずは浅く血がにじむ程度のことが多い。やっかいなのは、手首の内側の筋肉や腱を損傷した場合で、これをつなぐのは難儀だと手の外科の専門医に成長した旧友は言う。
 一般的には、ここを傷つけても死ねません。だから受け取る側は「ためらい傷」程度に受け取るか、また面倒を起こしたわね程度にしか受け取りません。
 心理学・精神医学の入門書には、こぞって、このためらい傷を問題にしなさいと書いてあります。死のうとした気持ちをくみ取って、もう死なないと約束させなさいと繰り返します。私は疑問に思いながら、そうしていました。というのは、下手をすると手首を切ったかどうかが話題の中心になってしまい、その陰に隠れた異常心理を見いだせなくなるからです。
 もちろん、本当に自殺を企てそうな方には、それなりの対処を行います。すなわち、毎回のように尋ねている問診を行い、まだ死にたいですか?、と問いかけ、そうだと応じてくるようなら、必ずその気持ちが晴れるときがくるので、早まらないようにと伝え、次回の診察は最も早い日程できていただき、必ずお待ちしている旨を念を押します。これで何人かは「救われました」と仰ってます。
 さて手首の傷。心理分析書などをみると、傷を作ることで周囲に自分の大変さをアピールし、周囲を動揺させ、言うことを聞かせようとする行為だという意見があります。
 ちがいます。
 ご本人によく尋ねると、一般的には無意識のうちに手首を切っていて、気がつくと、あ、またやちゃったと落ち込むことが多いのだそうです。つまり、手首を切る瞬間は、正常心理学で想像できる範囲を超えているわけです。もちろん中には、もう死んでしまってもいいやと考えて自分を傷つける方もいらっしゃいますが、これは先に述べた本当に自殺しそうな人たちの対処である程度は予防できます。
 問題は、あ、やっちゃった。タイプです。
 この人たちは普段は自分を傷つけることを非常に怖がっています。そんなことしても死ねないのだし、周囲に迷惑をかけるし、自分の分が悪くなることも承知しています。でも、どういったらいいか、発作的に気分が変化して自傷行為に至るのです。このタイプの場合に、先に述べた方法、いつかその気分が抜けるときがくるとか、死んじゃいけないとか説教じみた態度でせっうると逆効果になります。ご本人たちも死にたくはないのですから。あ、この医者わかってないなと言うことで絶望感を上塗りします。
 ですから私は基本的には、治療の基本原則を無視しています。手首の傷のことは直接尋ねません。どういうときに、どういう気分の時に、手首を切るのかに注目します。そう、異常事態への入り口を明らかにし、そこに陥らないようにする対策を考えるのです。
 あるかたは、周囲が自分を見ているような気がして、怖くなって傷つけると仰ってました。迷いましたが、リスパダール液を少量、そう言う気分になったときに飲んでもらうことにしました。リスパダール液は、興奮、被害妄想、などを速やかに鎮静してくれる作用に優れているのです。私は軽い被害観があると考えました。結果、成功でした。日に日に怖さが減っていって傷つけることも、傷つけたいと思う気持ちも消滅しました。そこでご本人と相談して、リスパダールの錠剤を毎日追加しています。
 また、あるかたは、突然、自分の存在が罪に思えてしまって、周囲に迷惑をかけているように思えてしまって、自傷行為に走ります。この場合は明らかに抑鬱気分の発作がでているのですが、落ち込みを即効的に改善する抗うつ剤は残念ながらないので、少し趣向を変えて、落ち込みに伴う不安を標的にします。これを和らげると、死ぬしかないと凝り固まった視野が少し広がることがあります。このとき、抗不安薬は比較的大量に使っていただきます。できれば眠り込むくらいに。一眠りすると、人間の気分は変わることが多いものですから。
 しかし、世間では自傷行為のある方を十把一絡げにして、人格障害だと診断するケースが増えています。これは誤りです。人格障害と診断されたら、もう治りませんよと言われているのと同じです。でもうそです。前にも書きましたが、様々な症状によって歪められて形成された、そのときの人格は、症状を取り去ることによって変化することが往々にしてあります。ここを間違ってしまってはいけません。人格障害だから自殺企図をする、周囲を振り回す、入院させると引っかき回される、などなど。全部誤解です。
 たとえば重症の肺炎の方が入院してきたとします。周囲にうつるかもしれませんが、その人の命には代えられないと入院してきます。病棟はその人にかかりっきりになるほどの忙しさになります。こういうことは平気なんですね、みんな。やがて症状を一つ一つつぶしていって回復します。大変さが嘘のように少なくなってゆきます。これは短期間に起こる出来事なので、皆、持ちこたえやすいのでしょうか?。
 人格障害の場合も経過は一緒です。ただ、悪化と軽快を限りなく繰り返し、ゆっくりゆっくりと回復するのです。ここに気がつかないと、あり地獄にはまって抜け出せなくなるのです。