無言の対話

 私は対話が大の苦手である。おやっと思われる方もいるだろうが、自覚的にはそうである。診療場面で何かを伝えるということは、時に神が断罪するにも等しく、あるいは悪魔が取引条件を提示するようなものだから、その一言一句は重みがある。私はその重みに耐えきれない。そしていつものように「え〜と」とか「ですから〜」とか考えるふりをしながら逃げ回っている。
 しかし、そんな私でも比較的得意な領域がある。小児から思春期にかけての方との対話である。
 小児は、よほど緊張していない限り基本的におしゃべりで、その話の筋に乗って相づちを打ったり、質問したり、回答したりすることが対話になることが多い。これは楽しい。その子と遊んでいるようなものだからだ。相手もそれは百も承知であろう。いきなり白衣を北見不知火とが出てきて「どこが痛いの?」とやればたちまち「ギャー、おかあさ〜ん」と大騒ぎにもなろう。ところがこちとら、GパンにTシャツ、無精ひげに白衣なしときたもんだから、「病院に行きますよ」とお母さんに言われてもピンとこない。こっちも仲良くなりたいから、まずはいやがることは強要しない。
 変わって思春期は、気むずかしい顔をしてやってくる。おまえ、何するものぞ、という形相である。もしも私が同じ立場で連れてこられたら、全く同じ態度をとるであろうから想像に難くない。相手が何か言おうものなら猛然と反論してやろうという気構えである。だから私は、当たり障りのない、たとえば、今日はいい天気だね、とか、好きな食べ物は、とかぽつりぽつり問いかける。もちろん、たいそうな返事は求めない。ただ「ああ」とか「うん」とかでかまわない。これで大成功である。後はこちらが尋ねたいと思うことが、心の底からわき上がってきて、ど〜してもど〜しても尋ねたくなるまでじっと待つ。簡単に尋ねてはいけないのである。探り合いにもにた無言の対話が進行しているからであって、たとえばうまくいったケースだと、「あの医者は自分のことをわかってくれた」と感じてくれる。そう、つれてこられたくなかったと言うことを理解していることがもっとも大切なのだ。
 どうもここのところだけは上手に運べるらしく、だいたいの思春期の方が、この雰囲気を気に入ってくれ、次回からも来てもいいと仰る。
 ここまでくれば半分成功である。保護者の方には申し訳ないが、お子さんと二人きりで(たいていは保護者の方は別室で待ってもらうことにしている)時間をかけて向き合っていると、何をするでもないにしろ、何か治療が進んでいるように思ってくれて、そのことだけで、その子に対する保護者からのプレッシャーが一時的に少なくなる。後はその子が「〜してほしい」と言ったことに対して誠意を持って対応すればよい。少し難しくともできそうなら応じるし、どうにもならないならその旨を残念そうに伝える。
 特別なことは何もしていないのだ。
 身なりにかまわず引きこもって、時折何かつぶやいて暴力をふるうケースを、片っ端から初期統合失調症だと決めつける医者もいるが、たいがいは待っていればそんな状態から抜けてくる。もちろん、統合失調用の薬剤を使うことはあるにせよ、それだけで統合失調症と断言できるものではない。
 思春期は誰もが皆通ってきている道だ。じっくり考えれば、不安定な自分を一所懸命支えようとしているいじらしい姿が見えてくる。そう見えない大人が、大人のルールを当てはめて、「困難じゃ大人になってからが心配だ」などと騒ぐからややこしくなる。
 まずは無言の対話から始めるべきではないだろうか。