何が援助になるのか

 随分更新をさぼってしまいましたが。
 先日、医局(うちの連中は、そう呼ばせないが)のOBの集まりがありました。気が付くと、巣立ってから15年近くの時が経っていたんですねぇ。先輩のM先生も、今じゃ大御所入りしたらしく、風格が備わっていました。
 ところで、そこで気が付いたんですが、私が向いている方向と、皆が向いている方向が全く違っていたんです。両者とも、治療の質の向上を目指しているはずなんですが。向こうの方々は、じっくりと時間をかけ、丁寧に対応してゆく方向へ。でも、それは逆に言えば、少数の方だけしかその恩恵を受けられない。物理的に時間が決まっていることもその要因だし、治療者の生活を成り立たせていくためには経営も考えなくてはいけないのですから、少数の方を相手にする場合は、自由診療の部分が多くなる。要するにお金に余裕のある方しか治療を受けられない。これは先進国(本当に日本はそうなのか?)では必然の道理です。
 でも、これって大いに不満です。
 私は彼らの対局にいます。つまり、できるだけ多くの人に会おうとしています。悪く言っちゃえば3分診療を目指しています。私と同期に医局に移ってきたY先生は、10年前に近県で小児精神医療に携わり始めました。この10年というピリオドで、治療してきたのはわずか30数人だそうです。一方、私は昨年から始めたにも関わらず、既に60数名を抱えています。個々人の満足度は比較できませんが、なんか、治療を受けるまでの待ち時間が長いことが、一つのステータス、ニーズの多さを物語っている、なんて見えてしまう。それは違うかなぁと、思います。
 実を言えば、現在のところで子どもの精神科を開く前に、大先輩の開業に誘われました。そこでは当然のごとく、一つのケースに1時間近い時間をかけて、できるだけ保険診療の料金で診療に当たる形式を取っていました。でも、それ以前から私は、時間をかける治療に疑問を感じていました。時間をかける心理療法を行っていた時期もありますが、その後の経験を振り返ると、私の心理療法は、必ずしも上質ではなかったと思っています。私の思いこみだけで治療方針を立てていたり、あるいは治療的と思ったキーワードをぶつけたり。未熟だったから、では済みません。患者さんにしてみれば、自分の将来を預けているのですから。結果的に、失敗した治療はありませんでしたが、あのまま続けていたらと思うとぞっとします。
 もちろん、時間をかけないからと言って、失敗することが少ない訳ではありませんが、心理療法のように水面広がる波紋の行方を追うようなもどかしさはなく、水中に沈む岩を追いかけるような、そんなスピード感があるので、結果が思ったより早く確認できます。当然、失敗もより早く発覚する。だから、その失敗を患者さんと議論できる。失敗を繰り返さないための努力が双方で行える。心理療法を非難するわけではありませんが、治療上、悪い方向に行くことを逆転移と呼び、それすら患者さんが引き起こした感情であると解釈する。何か納得いきません。
 少数精鋭というと意味が違いますが、少数の患者さんに全力を尽くすのは、残念ながら私の性に合わないようです。もっとも、数百人を抱えられるほどの器ではありませんが、少しずつでいいから、多くの人の役に立ちたい。そんな欲張りな私です。
 う〜ん、話がうまくまとまらないな。
 タイトルを思いついたのは、私が非予約制の外来をしていることについての、先輩たちの戸惑ったような、嘲うような、ちょっとした表情の変化を感じたからです。子どもの精神科はどこも順番待ちで数ヶ月かかるとこばかりです。緩やかに症状が変化してゆく状態なら、それでも良いのでしょう。しかし、私は即応を求められるような、例えば死にたいと思い詰めている患者さんにも、何かできると思っているのです。傲慢、ですかね。