アスペルガー批判を、批判する

 今日、書店で偶然見かけた雑誌に我が師の小論があった。我が師は障害児教育に一家言あって、なにやら難しい論理を展開して、周囲を煙に巻いてしまう性質がある。それは私が直接関わった2年間にも如実に発揮され、やはり何を言っているのかがわからなかった。
 今日見つけたその小論も、やはり煙に巻くタイプの論理だった。曰く、アスペルガー症候群は昔からあった。最近になって診断名が明確になったので、話題になっているだけ。一昔前の微小脳障害と論点は一致していて、アメリカの診断名をそのまま輸入しているだけ、と。
 師の元で、といっても直接関わっていた時期は皆無なのだが、勉強していたときは、障害児をふつう(ちょっと語弊があるが)の子と一緒に育てよう、というスローガンで運動している人だったから、その各方面への影響は大きい人である。実は、師が開業するときに、一緒にやろう、とありがたくもお誘いいただいたが、私の治療方針が、叩ける症状は徹底的に薬で叩く、というもので、できるだけ「病気」の範囲を広げたくない師とは、真っ向から対立した。その結果、決裂。声をかけていただいたのは、それなりに役に立つと思ってくださったのだろうが、今の私は、すでに全く違う方向に進んでいた。
 さて、本論。
 私の依拠する考えは、良くなるものは全て治療の対象にする。そして、ここが違うのだろうが、良くした状態を保ったまま、ふつうの子の中で成長してもらう。アスペルガーについては、周囲の空気が読めない、マイペース、対人関係の困難さ、などが全面にたつので、じゃぁ、この子には特別の環境が必要ですよ、と言う方向に流れるものだが、そこを踏ん張る。だって、それって一種の切り捨てで、社会的には死を意味するものでしょ?。それは避けてあげたい。もちろん、オーダーメイドの特別プログラムの方が、その子のペースにあわせた成長が見込める可能性が大であるが、やっぱり最後は社会に出て行くのだから、その段階で、社会との断絶は大きく、苦労する。
 今の社会は、余裕なく、即戦力を求める傾向が強い。それって公教育が面倒みる部分じゃないんだけど、いつの間にか公教育批判に進展している。それはさておき、別の経路で社会に出た子たちは、当然、即戦力にはなれないから最初から不利になる。そこを社会制度で何とかしようと、障害者雇用についての制度が作られた。それはもちろん必要なんだけど、規定を守ればそれで良いという考え方になってしまうのではないか?。
 またまた脱線。
 アスペルガーと診断することは、人間として規格外だよというメッセージでもある。だがそのレッテル張りは、たとえば背が低いよとか目が悪いよとか、そんなこととも同一線上に並ぶものだ。ここで師は、我が意を得たりとばかりに、ほ〜ら、特別な教育なんて必要ないでしょ、と論ずるだろうが、それは違う。目が悪かったら、それを受容し、眼鏡やコンタクトレンズといった「特別な道具」を利用して、目が悪くない子と同じ教育を受ける。忘れてならないのは、受容と軌道修正である。それがあるから、目が悪い人間でも実社会で対等でいられる。アスペルガーも、そうあるべきだと思う。アスペルガー(診断名はどうでもいいんだけど)と診断された子の中には、短所をカバーする方法に地道に取り組めば、あるいは薬物療法で軌道修正ができるケースがある。その子たちにとっては、診断されることは望ましいと思う。
 所詮、社会は規格品を求め、規格外を排除しようとする。そのような社会にあっては、障害者「でも」幸せになれるというのは、欺瞞でしかない。また、障害者「だから」良かった、というのも結局は社会の枠に組み込まれた価値観からしか生まれてこない。
 日頃、いわゆる人格障害の方たちの治療にも関わっていると、この人たちを規格品に戻す、つまり人格を正してゆくことが治療になるのだろうが、それは気に入らない。私は、表面にある「人格」が、小さな症状の積み重ねでしかない、と思う。よって、その人の症状だけを取り上げ、ひとつひとつ薄皮を剥ぐように薬物を効かせていって、最終的には社会に適応しやすい自分に戻れる。これを治療と呼ぶか、矯正と呼ぶか。私は前者だと思う。矯正は、持つものを総動員して社会に適応することだからだ。師の欺瞞は、ここにあると思う。障害者が生きやすい社会の実現、なんていつになるのだろう。それよりも、蓑虫くんよろしく本当の自分に何十にも被っている殻を丁寧にはずし、もう一度出発点に立ち返ることが大切だと思う。
 ここまで論じてきて、はたと気づいた。師と同じ切り口なのか。いや、違う。私は障害を個性などと言って誤魔化すつもりはない。どころか、障害を見つけ、医学的プログラムで「治療」することが適切だと思っている。個性として押し通す師とは完全に異なっている、はずだ。