治療の境界線

 不登校・登校拒否(以下不登校)、学習障害、ひきこもり。これらの状態を発見した場合、どうされますか?。不登校も10年程度前までは、早期発見早期治療が叫ばれていましたが、児童青年精神医学会での議論の結果、それは誤りであることが結論づけられました。何故でしょう?。
 不登校はあくまでも状態であって、病気の症状ではないからです。早期発見早期治療を提唱した稲村博は、不登校の子ども達の中に重い精神病が隠れていることの着目しました。すると、当然、不登校を見たら精神病を疑え、となるわけですね。
 ところが石川憲彦は、自験例で、不登校の中には必ずしも精神病が含まれるわけでもなく、また、社会復帰ができないという稲村博の説も間違いであると指摘しました。これによって長い間紛糾していた議論に決着が付いたわけです。
 では学習障害はどうでしょう。名前だけ聞くと勉強ができない子ども達を指すだけに聞こえますが、立派な精神疾患です。というのは、アメリカ精神医学会がまとめている診断基準、DSM-IV-TRにしっかりと記載があるからです。勉強できないのが精神疾患....?。不思議ですよね。具体的には、たとえば算数だけが他の科目の成績に比べて極端に悪い子や、読むことはできるのに書くことができない子(文盲とは違います)、などなど。いくら努力しても解決できないこれらの状態を、敢えて病気としてとらえて、ハンディキャップであると定義したようです。これに救われた子は多いと思います。が、一方で、病気であるとされた以上、治療プログラムに載せられる子も多くなりました。曰く、適切な治療教育を行えば、一定レベルには達すると。極端な話、いわゆる文系人間は数学が苦手という理由で文系を選ぶことがありますが、これを学習障害ととらえることもできなくはないのです。迷惑な話じゃありませんか。世の中には数学ができる子もいて、できない子もいて当然なのです。もちろん、極端に数学ができなければ、社会に出て少々困る場面もあるでしょうが、それでも生活はできるはず。病気扱いは、さて、いかがなものか。
 引きこもりも然りです。
 では、どこが境界線になるのでしょうか?。
 答えは一つじゃありません。親が困り切っている場合がそうかもしれないし、本人の悩みが深い場合を適応にすることもあるし。一言で言えば、当事者が強い苦痛を感じているときに、積極的な治療を行うことになります。
 公衆衛生の観点からすれば、発覚するまで放置せず、予防が大切であるという意見があるかもしれませんが、この考えは時に恐ろしいものになります。不登校の予防を考えると、当然、不登校は悪いことであるという前提が必要になります。でも、中には中卒で手に職をつけたかった子どもが、親の意向に負けて進学し、その結果挫折、不登校に至るなんて場合もあります。これをどこで予防しますか?。学校に行くことが正しいことなら、中卒者はそれだけで落伍者になってしまいますが、実際にはそんなことはありません。
 このように、治療の境界線は曖昧で、デリケートなものなのです。誰かの意見が常に正しいわけではありません。相談者と治療者の濃密な関係で決めてゆくものなのです。